「あんたが負ければよかったのに!」
兄弟4人で夏休みに祖父母の家に遊びに行ったとき
おやつのアイスクリームが3つしかなかったので
じゃんけん勝負で僕が買った時に祖母から言われた言葉です。
「あんたも来たんか?」「あんたはおやついらんでしょ?」
祖父母の家でも、親戚の家でもこんな言葉ばかり掛けられる日々。
自宅では酒に酔った父親が母親に罵声を浴びせ暴力を振るう。
そんな日々が9年間続き、僕はー
はじめまして、さとしーと申します。
僕はゲイ、身内からのいじめ、中卒の学歴難民
という状態から目標や目的の正しいやりかたを研究し
どん底で何一つ自慢できるものはなかったのに
いつでも人間関係を充実させて、どんな苦しい環境でも
前に進んで行くことで充実した人生を手に入れました。
現在、フリーランスになって10年。
今は先生業で時給10万円の報酬を手にしています。
会社員時代はどうだったかというと、30代半ばで年収1000万を超えていました。
しかも、元々は契約社員から入社し管理職にまでなり、残業はほとんど無しで
人間関係も良好でストレスゼロの環境です。
そんな僕がなぜ情報発信をしているかというと、
「正しい目標・目的設定の方法を通して、仕事が楽しいと思える人を増やしたい」
と本気で思っているからです。
情報過多の時代、多様性やらダイバーシティとか盛んに言われていて、正直なところ食傷気味ではありますが、だからこそ価値観の合う仲間が増えたら最高です。
これからの時代、会社員でも副業をしたり起業したりするのは当たり前です。
一緒に事業やってみようとか
来年ミュージカルやってみない?というノリで一緒に人生を楽しめる。
僕が考えていることや
個人理念について深堀していく前に、
「あんたダレ?そもそも何者?」
となっていると思いますので
軽く箇条書きで自己紹介をしますね。
- 15歳から正社員で勤務
- 転職経験は合計7社
- 小売り、工場、トラック運転手、介護、生保、損保業界を経験
- どの職場でも全力で楽しく勤務していたので人生がもう1つあったら続けたかった
- ありとあらゆる目標設定をしていたので、書き込んだノートはダンボール2箱
- 会社員時代は組織改革の成果が業界紙に掲載され講演の依頼が殺到
- フリーランスに転向してからも様ざまなビジネスに挑戦
- メインの講師業のついでに行っていたビジネスで800万円の売上
- コロナになり、ほぼオンラインビジネス化に成功
- 愛犬ファーストな生活を満喫
- 大人数になればなるほどパフォーマンスは上がるものの独りっきりの時間も超重要
- 21歳の時にシンガーを目指して上京し仕事をしながら六本木のクラブでレギュラー出演
- 今もヴォイストレーニングは継続しつつ、音楽をどのように決着を漬けるかワクワク模索中
- お酒が大好きでついつい気づくと12時間飲んでいたりする
こんな感じで色々やってます。
こんな話しを聞くと、「運が良かったのでは」とか
「さとしーだからできるんだよ」とか言われますが、、、
でも振り返りながら書いていて自分でも驚くのですが
僕はもともとどうしようもないわがままだったし、
どうしようもなく頭が悪かったし、
「はやくどこか自分の理想が叶える場所に行きたい」
とか考えながら
夜中に星を見てタバコ吸いながら妄想にふけるのが楽しみだった人間です。
ただ、、、常に目標と目的設定のしかたを模索し続け
やり続けた結果、今があります。
誰でもこの世界を実現できるんです。
最終的にこれだと思えた目標目的設定の方法は
「 」という
過去2000人以上の人が実践されたツールで
動画で解説してありますので、もしよかったら視聴してくれると嬉しいです。
ただ、どういう感じの生き方をしてきて
今の状態になったのか、
簡単にわかるように年表も作ってみました。
さとしーのプロフィール年表
現在、法人向けには新しいスタイルの研修を展開し、個人向けには「目標×目的=充実した人生(幸せな生き方)」を一緒に送れる仲間作りを目指して驀進中。
と、アラフィフなので長い年表でした。
振り返ると、父と兄弟が7歳になってからできるという奇妙な人生。しかも家が心理的に安全ではない環境だったのでかなり苦しかった。
兄二人はスポーツ万能でイケメンなのでバレンタインにはダンボールいっぱいのチョコレートを持って帰ってくる。同い年の従妹は頭脳明晰で進学校に進むとかを聞かされると、自分の出来なさ加減に落ち込むし嫉妬もするし。
中学に入ると自分のセクシャリティを自覚し始めて、家でも学校でも安心できない二重三重の苦しみ。いい年してドラえもんがいてくれたらなぁって本気で祈りながら秘密を持って将来への不安を抱えながらの日々。
唯一の見方であった全盲の祖父にも、セクシャリティの悩みは相談なんてできず、誰も助けてくれる人はいなかった。どうしようもなく追い詰められた時には、自殺するって言い残して街を彷徨い、、、、
学校の先生、同級生、近所の人、家族、警察等が捜索し確保される事もあった。この事件の後はますます学校も家も気まずさから居心地悪くなる始末。
だけど、、これは何とも言えない経験なんだけど、中3の時に鏡を見ていた時に「ゲイ的に俺イケテない?」って(笑)「自分ならできる!」って何故か確信を持てて(苦笑)
もし、この経験が無かったら追い詰められて逃げるパターンの繰り返しだったと思う。
その後、目標や目的を常に持つことで
会社員の大変な時代も、フリーランスになって大変な時代も
人間関係や運をつかみ叶えたいことやわらに大きな夢もでき、
楽しく、目いっぱい日々取り組んでいます。
自分の経験を通して思ったことは、
例え、
家が裕福じゃなかったとしても、
無気力だったとしても、
夢や目標が持てなかったとしても、
才能に恵まれなくても、
満足しない生活を送っていても、
どん底だったとしても、
過去になにがあったとしても、
人生を通して、
正しい方向性で正しい努力をすれば
方向は必ず変えられる、ということです。
その燃料はやり続けることです。
そして、幸せには相対的な幸福と絶対的な幸福があるということです。
今あなたが何かに落ち込んでいたり、
傷ついていたり、病んでいたり、
つまらない仕事から逃れられなかったり、
人間関係が上手くいかなかったり、
ダメダメだったり、「あんまり心から幸せとは言えないかも…」
という状態であればあるほど、
その後に光が差し込んだ時、
この上ない幸せを感じることができます。
僕自身がまさにそうでした。
人生は必ず変えられる、、、、瞬間的に。
取り返すことができない出来事に、後悔の無い人生を送ろうと決意
1)中学の同級生 Nくん
Nくんは「ぼっち」って呼ばれていた。
おでこの真ん中に大きなできものがあったからだ。
容姿はたいていいじられるのが定め。
彼はいつも独りだった。暴力とかは無かったけど独りはしんどかったと思う。
僕はいじめの対象にされるタイプでは無かった。
恐らく、家庭でも親戚の家でも祖父母の家でも、上手くやることを処世術として身につけたからだと思う。
だから、スポーツは全然ダメ。勉強も全然ダメ。美術も全然ダメ。とにかく何もかもダメなのに学年のスポーツ好きなグループ、がり勉のグループ、不良グループのどこにも属していた。
自殺騒動の後、しばらくはいろんな人と距離があった。だからNくんの気持ちはよくわかった。お昼の弁当を一人で食べている彼の元に机を持って行き、「一緒に食べよう」と声をかけた。誤解の無いように言っておくと、周囲と距離があっても一緒に食べる友達はまあまあいた。
彼はちびまる子ちゃんに出てくる、永沢くんのように「食べたければどうぞ」って感じだったのを覚えている。孤立してそうなっていったのか、そうだったから孤立したのかわからない。
彼は小柄で良く見ると可愛い顔だった。僕はゲイなので同姓をそういう目で見る。
1か月くらい一緒に食べていると、彼も様子が変わってきて、教室の移動とかがあると向こうから声をかけてくるようになった。
自然な付き合いができるようになっていたが、いじめっ子というのはそういう予兆を見逃さない。
ある日。彼とお昼を食べようと準備をしていたら、いじめっ子を含むグループのひとりが「さとしー。こっちで一緒に食べようぜ」って声をかけてきた。
僕は「Nくんも一緒にいい?」って聞いたら「ダメだ」と即答。
僕は「もう机動かしちゃったし今日はここで食べるよ」と断った。
既にNくんの表情は暗かった。そして「明日からあっちで食べたら?」とも。
彼を独りにして良い物かどうかが、中学生でもわかっていた。
次の日から、お昼一緒に食べよう(Nくんと一緒に食べるな)攻撃が凄かった。
教室のどのグループも僕の動向を見守っていた。
悩んだあげく、折衷案で月水金は他のグループ(誘われたグループ以外の巡回)、火木はNくんと食べることにした。
僕的には他のグループにも声をかけて、いずれNくんを受け入れてくれるように説得しようと企んでいた。
ところが、、、
新しい昼食の方法を試した翌週から、Nくんは学校を休みそのまま転校していった。
クラスの誰もが原因に気付いていたけど、誰も口にはしなかった。
僕は担任に呼ばれて職員室に行くと、Nくんからの手紙だと受け取った。
そこには、一緒に昼食を食べてくれて嬉しかったというお礼がかかれていた。
彼は、ずっと前から学校でのイジメを両親に相談していて転校の計画が進んでいたとのことだった。
それが、僕の存在で風向きが変わるかもと思って、そのことも両親に話していたと。
手紙は便箋3枚に渡って書かれていたが、感謝の言葉で埋め尽くされていた。
でも僕は素直には受け取れなかった。
あの時、最後までNくんと一緒にいる勇気があったら?
他のグループに「クラスメイトなんだから一緒に食べよう」と声をかけていたら?
良くできたと思っていた折衷案は
結局自分を守るためのものだったと思い知らされた。
最後まで守る力が無いなら、最初から行動するべきではなかったのでは?
彼と一緒に食べた後で、独りにさせたことでより大きな苦痛を与えていたのでは?
13歳で自分の弱さや残酷さを知った。
2)全盲のおじいちゃん
「おじいちゃん。お疲れさまでした。本当にありがとうございました」
78歳で息を引き取ったおじいちゃんに声を振り絞ってかけた言葉でした。
7歳まで母と全盲のおじいちゃんと暮らしていた。
母は夜仕事をしていたので、日中は寝ていて夕方からいなくなる、だからおじいちゃんが僕を育ててくれた。
日中は自分と僕の腰に縄を結わえて、どこかに行かないようにいつも手綱をひいていた。
全盲なのに、料理もするし、スーパーに買い物もいくし、散歩もするしで今思うとスーパーマンだったなって思う。
0歳
愛知県小牧市に生まれるも、直後に函館の祖父宅に引っ越す。
3歳
全盲の祖父と2人で留守番中にマッチで火遊びをしていたところ、ふすまに燃え移ってしまい一軒家を全焼させる。ラジオの相撲中継に夢中になっていた祖父に火事だと訴えて真冬に着の身着のまま脱出する。
4歳
新潟に引っ越して保育園に通うも友達が1人もできずいつも祖父にべったり。母はスナックで仕事をしていて経済的にも余裕があり、祖父も欲しい物は何でも買ってくれる生活だったのでどんどんわがままに成長していく。
7歳
小学校入学直前に父方と暮らすことになり名古屋に引っ越す。
初めて父親と兄2人と姉(前妻の子)に会い、突然の集団生活がスタート。
父親はラグビーをやっていたため身体がごつく、兄2人もサッカーをやっていたため運動が大嫌いな僕は異次元の人として接する。
朝食はパンが出るも、パンが好きではないので1人だけご飯にしてもらうも米がまずくて喉を通らず苦戦。漁師だった祖父の影響もあり魚中心だった僕は肉も食べられず1人だけ別メニューが多くなり、兄弟との確執が生まれてきてますます自宅がアウェーになっていく。
10歳
父方の祖父母宅に兄弟だけで遊びにいくも、前妻の子だけを溺愛しあからさまにいじわるをされることに気づく。おやつはいつも3人分しかなく、「あんたいらんでしょう」と最初に言われることもあったり、姉がじゃんけんで決めようと言ってくれたりした時もあったが、じゃんけんに勝ってしまうと「あんたが負ければよかったのに」と言われて悲しい気持ちになる。
13歳
中学に入ると父から必ず運動系の部活に入る事を命じられハンドボール部に入るも2日で退部。その後卓球部に入るも2日で退部し以後は帰宅部。自宅に帰ると父親から「男は運動やらないかん」と言われる日々。
合唱コンクールでピアノを弾いていた女子の指をみて感動し「ピアノを習いたい」と言うも、父に怒鳴られてしまう。母が妹にピアノをやらせたいという名目でアップライトピアノを購入。
14歳
中1の時に音楽の授業で「来年、僕はピアノの伴奏ができるようになる」と宣言。帰宅してから課題曲「ひとつの朝」を猛練習する日々。18時に父親が帰ってくる気配を感じるとすぐに中止したり、土日も家にいることが多いのでピアノを弾けずストレスフルな日々の中で猛練習して実現する。
15歳
高校には行かずに働きに出ると言うも、「高校卒業しなければ就職できないから、地元の高校で良いから行くように」と親の猛反対にあう。お互いに妥協で実家を出て寮付きの職場(スーパー)で定時制高校に行くことに。結果3ヵ月で退学。
同じ職場の先輩(19歳)に恋をして相手方の実家で同棲生活スタート。
好き過ぎるために束縛をしてしまい破綻(というか相手はノンケ)
17歳
近所にできた新しいスーパーから声をかけられて転職。職場の先輩(24歳)に恋をしてしまい、好きすぎてまともに仕事できない日々が続く。
仕事の成果で自分の方が結果をだしたことで有頂天になってしまい、喧嘩勃発し退職。
18歳
寮を出て行くところが無いためスゴスゴと実家に戻り、父が工場長をやっている会社に転職。3ヵ月位で辞めて上京する魂胆だったが、親の大反対にあい(当たり前w)冷静に考える。「勢いで家出することは可能だが、信頼されて応援される人間になってからだ」と考えて地元で頑張る。
21歳
なんとか信頼を勝ち取り(母はヒステリー状態だったが、、)寮付きの運送業(ネコ)に就職。9:00-18:00という募集要項だったので、終わってから音楽スクールに行くよていだったが、とんでもない勤務時間のため全く無理。土日はクタクタで動けない。。
22歳
介護職から転職してきた人の会社を紹介してもらい転職。念願の音楽スクールのオーディションで特待生として入学。賞レースでも入選を果たし、次のレベルで同スクールのレーベルでデビューというところでスクールが買収され、その会議中に講師同士の喧嘩が勃発し警察沙汰で自宅待機となる。
結果スクールが2つに分裂しどちらからも声がかかるも、個人のヴォイストレーナーにつくことにする。
25歳
生命保険会社の契約社員として転職。時間で仕事をしながら六本木のクラブにシンガーとしてレギュラー出演する日々。
28歳
仕事で成果を出し始めたことに目を付けられ正社員の打診。断り切れず正社員となるも、いじめが横行する職場のため新しい人がすぐに辞める異常な職場。
31歳
異常な職場をピカピカな職場に変えた事が、外部から評価され多くの業界紙に掲載される。この頃から社外で講演等をすることが仕事になる。
36歳
年収1000万に達する。素晴らしい部下に囲まれて毎日定時で帰宅する生活にぬるさを感じて恐怖を覚える。すぐに退職を申し出た。ホテルの宴会場で8時間超の送別会を開いてもらい盛大にお別れするも、グループ会社への就職を強く勧められ結局は隣のビルで勤務することになり、毎日会える環境となる。
39歳
全国出張がある大きなフィールドで仕事をしてみるも、会社員ではないと感じて退職。
40歳
自分のやりたいことを探すために、様ざまビジネスを立ち上げてみるもどれもしっくりこない日々。しっくりこないというのは【儲かるけどつまらない】【儲からないけど面白い】というどちらか。
45歳
研修講師業を始めて3年目になると、リピーターと新規依頼で年間200日の稼働となり忙しすぎて鬱っぽくなる日々。
47歳
コロナ過で仕事がオンラインに切り替わり、自分のスタイルを掴む。クライアントの整理も行い、報酬は1時間10万円。現在は月の9割を自宅で愛犬と過ごす生活を送っている。